2015年12月10日木曜日

“自分語り”を面白く読ませるには?



先日、まんきつさんこと、まんしゅうきつこさんとともに小田嶋隆さんのライティング講座へ。

小田嶋さんのコラムはかねてから愛読していました。
『コラム道』は、煮詰まった時にながめようと手元においてあるし、『友だちリクエストの返事が来ない午後』は、読みかえすほど味わい深い名著。

文章技術はもちろん、モノの見方と発想、思考のつながり具合が独特で面白い。難しいことも分かりやすく、でも、ちゃんとアンビバレントなままに表現してくださる。
技術と思考と表現力。後進のモノカキとして、かくありたいと憧れてやまないのですが、それ以上に、読者として、いろんなツボを刺激されて快感です。

124日行われた第4回は、文体と主語について。客員教授は、神足裕司さん。
たくさん、興味深い話がありました。
 
文章の巧い人は日本に600万人くらいはいるけれど、モノカキとして食べていける人は、わずか。それは、独自の文体をもっているどうかが大きい。
 でも、文体は、故意的に身につけられるものではなく、生まれつき備わっているものである」
 (*要約です)

 身も蓋もない話だけれど、小田嶋さんは、優しい処方箋も。

「自分にとっていちばん自然な語り口で書くとそれが自分の文体になる」
「文体は口調のようなもの。あの人みたいにしゃべろうとしないこと。不自然な言葉遣いをすると、秘めたる己の思考が外に出ない」

 要は、のびのび書くのがいちばん。
 基礎的な技術は必要不可欠なものだけれど、あとは、好きに話すように書けばいいということ。


 他にも、「ボキャブラリーは多いほどいいけれど、中身が薄っぺらいのに言葉数だけ多いのはいかがなものか」など数多の示唆がありましたが……

何といっても、神足裕司さんとの対談。

対談は、小田嶋さんが事前に送ったという、神足さんへの質問を綴った手紙を読み上げ、神足さんとともに壇上にあがった息子の祐太郎さんが、返事を代読するという形で進められました。

2人は初対面とのことですが、ともに同世代のトップコラムニスト。

小田嶋さんが神足さんへ送った質問は鋭く、愛に満ちていました。
それに相対する神足さんの答えは、自然体にして深く。父の思想を受け継ぎ、血肉にして言葉を述べる祐太郎さんのサポートも温かかった。

とりわけ、印象的だったのは、“モノカキの自分語り”についての話。

「文章を書く時、“自分語り”をするとどうしても嫌らしくなってしまうから、自分は極力避けている。でも、神足さんの自分語りは、みじんの嫌らしさもない。それはどうしてなのか?」


という小田嶋さんの質問に対して、神足さんは……

「自分語りは気晴らしといいますか、他者を観察するように、自分を観察して書いている。自分語り自体が嫌らしいのではなく、自分を客観視できていない人間による“自分語り”や、自分を良く見せようとする人間の“自分語り”が不潔なのである」
(*要約です)

この示唆には、うなりました。

私自身も、コラムやエッセイを書く時に、どれくらい“自分語り”をするべきかはいつも悩みどころ。
ある人物やある現象について書いている時も、「自分のことも書いたほうが面白いのではないか?」とは思うものの、安っぽい自己顕示にならないであろうかと思って避けていた。
一方、経験を重ねるうちに、頑なに自分のことを語らないのも何だかズルいし、つまらない気もしていた。(だって、他人のことは言いたいこといっているのにね)

だから、時により、自分語りをしてみようと思うようになったものの、どう面白く自分語りをするかは、いまだ課題だったのです。


神足さんの最近の著書もいろいろと読んでみたい。

小田嶋さんのライティング講座。
次回は来年の18日、客員教授は、まんきつさんです。


私以上に、小田嶋さんの愛読者である、まんしゅうきつこ!



小話。

 先日は完全にプライベートで講座に参加した、まんきつさん(と私)。神保町駅にて待ち合わせた彼女は、軽く変装していたので、誰だか一瞬、わからなかった。

(詳しくは述べませんが、アグレッシブな変装ではありません)。

 なぜ、変装しているのかと理由をたずねると……

前々回の本講座に参加した時、受付でチケット代を払おうとしたら、スタッフの方に気付かれて、「無料でいいですよ」と言われた。

「それが申し訳なかったから、変装してきた」と。

「客員教授なんだし、ご厚意に甘えても良いのでは?」とツッコミつつも、思わず笑ってしまいました。

 まったく長い付き合いではないけれど、何だか、彼女らしくて。

 こんなにも控えめで含羞をもって、“まんしゅうきつこ”を名乗っている……。

「小田嶋さんにもバレてなかったよね!」って嬉しそうだったけど、おそらく、最初からバレていたと思われます。

そういえば、新刊『まんしゅう家の憂鬱』には、大学時代にアグレッシブな変装をしていたまんきつさんのエピソードも載っている。

今、読んでるところですが、めちゃくちゃ面白いので、本書については、改めて書きます。




2015年11月20日金曜日

“プロのライター”になりたい人へ。 後篇



「ライター」が“職人”であるならば、一方、「作家」とは?

「作家」も「ライター」同様に、時代とともに変化しているし、広義に解釈できる職種。その人が書いているものの種類(小説、エッセイ、実用書、自己啓発本……etc)と質にもよりますが、私にとって「作家」は“アーティスト”に近いお仕事です。

 優れた作家は、文章技術も備えていますが、それは必須ではない。極端なことを言えば、文章技術はなくとも、独自の文体とか、その人ならではの視点や発想や思考や経験があればいい。ただし、作品にあらわれる人間味や世界観が読み手にとって魅力的なものであることが不可欠です。
 「作家」という職業は、本人がどれほど望んでも、市場に求められなければ成り立たないし、1度、ブレイクしても継続するのは、修羅の道。そもそも、自分にしか書けない作品を書くことは、多かれ少なかれ、心身を削ること、何より覚悟がいることですから。

 ある大御所作家が、メディア出演が中心の作家を評して「あの程度の本を2~3冊出したからと言って、“作家”を名乗るな!」という怒りを噴出させていたのを目の当たりにしたことがあります。「作品」を生むことに全精力をかけているからこそ、スタンスの違う人を受け入れがたいのでしょう。気持ちは理解できます。

 でも、作家業だけで食べていける人は、ごくわずかですからね!

「ライター」は、その人の能力と意欲にほぼ比例して稼げる仕事だと思いますが、「作家」は違う。優れた作家や素晴らしい作品が必ずしも売れるとは限りません。

 だから、私的な見解としては、執筆一筋であろうと、その他の活動が多かろうと、兼業であろうと、「作品」で勝負している人は「作家」だと思う。
 たしかに、創作よりもメディア出演や講演活動が中心の人は、「作家」というより、「タレント作家」という呼称のほうがふさわしいかもしれない。でも、寡作でも良質な作品を生み続けているなら「作家」。文才だけではなく、タレント性とかトーク力とかビジネスセンスとか、総合力で勝負するのが向いている人だから、そうしてるのだと思う。メディアの在り方を考えると、今後はこちらのほうが主流かもしれません。

 ただ、「タレント作家」も存在を求められなければ成り立たない。第一線で活躍している方々は、総合力が高いのはもちろん、かなり努力もしている。表舞台に出て活躍するというのは、それはそれで心身を削る作業。得るものも多いけど、失うものも少なくないはずですから。

 まとめます。

「ライター」になりたいといいつつも、実際は自分の本を出したり、講演する人になりたいなら、ゼロから「ライター」見習いをやるのはかなり遠回りだし、確率も低い。それよりも、自分の好きな「作家」、あるいは「タレント作家」の在り方とか、生き方を真似てみるほうがいいと思います。


 具体的には、もちろん、まっさきに「作品」を作ることです。
 
 それを、SNSやブログなど公共の場でどんどん発信する。日常を綴るブログとかではなくて、「これが私の削った身の証!」くらいのモノ――エッセイでもコラムでも評論でも実用でも漫画でも写真でもいいから、自分の作品を発表して、注目を集めるのが近道というより、王道なのかなと。

 ここ数年、ゼロ地点から注目を集めて活躍しているクリエイターは、この道を通った人がほとんどです。当然、それも確率は低いです。でも、高名な識者たちが審査委員をつとめる文芸賞に応募するよりは、いくぶん、確率が高いかもしれません。

 このご時世、ツイッターのフォロワー数やFacebookの「イイね!」を増やすことは、まったく無意味なことだとは思わないけれど、結局は、「作品」なくしては、「作家」にも「タレント作家」にもなれないですから。
 
 そして、作家であろうとなかろうと「作品」を生むには、とにかく机に1人で向かって書きあげるしかないんですよね。
(コレは、自著やエッセイの依頼となると、嬉しくも気負って執筆が滞りがちな自分にも自戒をこめて!

 以上、「ライター」と「作家」の違いと、それぞれの職につくための方法について、私的な見解をのべてみました。

 一方、さまざまな可能性が広がっている時代、モノカキの職種を分類することも、方法論を述べることも、それほど意味がない気もしてしまう。

「ライター」も「作家」も人それぞれ、思考も歩みも個性もまったく違いますから。

 事実、私自身も書き手としてはわりと変わった経路を歩んできたし、歩んでいる。

 そもそも、私は「ライターになりたい」と思ったことも、「作家になりたい」と思ったこともありませんでした。子供の頃から「文章を書く仕事がしたい」と思い続けて、最初に不思議なご縁があったのが、雑誌の世界だったんですよね……。

 もしかして、こういう個人的な経験を振り返って見出したことを述べたほうが、これから書く仕事につきたい人にとっては、役立つ情報になるのかな?

 ふとそう思ったら、いろんなことが浮かんできました。

 折をみて、改めて考えてみたいと思います。そして、何かしら見いだせたら、ここでシェアしますね。

2015年11月18日水曜日

“プロのライター”になりたい人へ 前篇



 いつのまにか、私、18年間もライターをやっていました。

だからなのか、「どうやったら、ライターになれますか?」という質問を1年に3回くらいはうけます。


つい先日も、ほぼ同時に2人から質問を受けたので、ブログに書いてみようと思います。



質問者の中でも、本気でライター業で食べて行きたい人はおそらく半分に満たないとは思いますが、最近はまず、「どういうライターになりたいですか?」と聞いてみます。

数年前、まだ出版社に人を育てる体力があった頃は、「とにかく一度は現場を経験したほうがいい」と考え、何人かのライター志願者をアシスタントとして編集部に紹介しましたが、1人も巧く行きませんでした。


前職は文芸の編集者という女子もいたのですが、ライターとしては全然書けなかった。
「短い文章でも雑誌の水準に達するものが書けない。雑用をまかせたらすぐに辞めた」などと、紹介した編集部には、毎回、同じような文句を言われる始末。
そのうち、出版社はどこも「ライターは経験者しか使わない」というように。

 WEBを中心にメディアも増えて、あらゆる媒体から「ライターが足りていない」と聞くのに、ライター志願者がなかなかライターになれないとはどういうこと?


才能とか経験は抜きにして、何かしら他に理由があるはず。
 
しばし、考えてみました。

 ひとつは、発注側が求める「ライター」と志願者が思い描く「ライター」のイメージが
かけ離れているからだと気付きました。

よくよく話を聞けば、「ライターになりたい」人の大半は、自分の名前で本を出したり、メディアに露出したり、講演会をするような人になりたいと言います。

それは、「ライター」というよりは、「作家」のお仕事です。

“個人がメディア”として機能している時代。
「ライター」という職業の可能性は広がっているし、受け手(読者)にとっては、
「ライター」と「作家」の境界線はあまりないのかもしれません。

「ライター」として自分の連載をもち、著作を出版して、メディアに出演している人もたくさんいます。
 有名どころでは、吉田豪さん、速水健朗さん、武田砂鉄さんとか。
 活動範囲だけでいえば、いちおう、私もそうです


 でも、それは興味にまかせ、求めに応じた結果として、次第に、そうなっていっただけの話。

基本的には「ライター」と「作家」はまったく異なる能力を必要とする、別個な仕事だと私は認識しています。

「ライター」は、文章力と取材力という技術をもって記事を生み出す“職人”です。
作文と取材に関してはハイレベルな技術を備えているし、加えて、音楽や映画など何かしら深い専門知識をもっている人も多い。
さまざまな場へ行き、不特定多数の人に会う機会も多いので、バランス感覚やコミュニケーション能力が優れていることも求められます。



あくまで、「優秀なライター」の話。



実際は私もふくめ、現役ライターでも、すべてを備えている人はそういません。
だから、これらを備えていれば、時代とメディアが変化しても、コネや繋がりが一切なくても、絶対に売れっこになれます。

カメラマンやヘアメイクと違って、ライターは名乗れば誰でもなれてしまう。
でも、ほんとうは技術職です。
技術と知識が無ければ、お話にならないし、仕事はこない。
逆に、素晴らしい技術(と少しの営業力があれば)、長らく食べていけます。

ようするに、プロのライターとは、シンプルに技術と知識で食べていける人だと思う。


だから、私は「ライター」として高度で面白い仕事をいただけると誇らしく感じるし、本物の“職人”として、素晴らしい技術と知識と経験をもっているライターの先輩方を尊敬してやみません。

でも、ライター志願者の方々が目指しているのは、そういう職人的な「プロのライター」?


もし本気で、プロのライターを目指すならば、方法はシンプルです。


私が18年前にライターを始めた頃と同じように、雑誌でもWEB媒体でも「どんなに小さな記事でもいいから」と願い出て、とにかく書かせてもらうこと。
「安くていいし、何でもやる」という志願者への門戸はいまだ開かれているはずです。


SNSやブログで自己アピールする必要なんて全然ない。

主観で綴るブログと媒体で書く文章は根本的に異なるもの。
だから、実地で文章力を鍛えながら、実績を積み重ねるしかないんですよね。
最初は全然お金にならないし、地道で地味な作業の繰り返し。
でも、プロのライターになる“わらしべのワラ”はそれしかないです。

一方、もし、「作家」になりたいならば? 
あるいは、「作家的なライター」になりたいならば、また別な能力と努力が必要だし、もっと効率のいい方法があると思います。


(後篇に続く)

2015年9月17日木曜日

“抱く女”になれない理由 ~桐野夏生さんに会う



発売中のand GIRL 10月号。
連載している「芳麗の本と音楽の話 café」、
今回のゲストは敬愛する作家の桐野夏生さんです。

新作『抱く女』の話はもちろん、現代の女に必要なフェミニズム、小説に描きたくなる女、嫌いな女の話まで。
とても濃密にフランクにお話くださって、とても感動、感激しました。

『抱く女』は、これまでの桐野作品とは異なる作風。
桐野さんが青春時代に感じてきた葛藤や痛みがリアルに体感できる、私的な小説です。
ハードボイルドなミステリーとはまた違う、ひりひり感があります。

舞台は、1972年の吉祥寺。
あさま山荘事件があり、学生運動やウーマンリブ運動が活発化していたものの、
世間には、混沌としつつも退廃ムードが漂っていた頃です。

テーマは、“女性の生き辛さ”。

「抱かれる女から抱く女へ」という当時のウーマンリブのスローガンが、
今も鮮烈に響くのは、40年以上経ったも、
根底のところで女性が抱えている悩みは変わらないからでしょう。

2015年の今も女性が主体的に生きるのは難しい。
抱かれる女ではなく、抱く女になれない。
それはなぜなんだろう?

桐野さんのお話にはいろいろ感じ入ることが多かったです。

もっと、女性は怒っていい。
自分のせいじゃないのに嫌な思いをしたら、仕事でも家庭でも闘っていい。

という言葉がとても心に残りました。

日々にもまれるうち、闘うこと、怒ることすら諦めて、忘れてしまいがちだから。


最近、大人の女として怒ることの必要性について、よく考えています。

改めてコラムにします。


2015年9月16日水曜日

【食】 It's a beatiful お弁当 World!

とりあえず、久しぶりのブログ。
しばらくは、いろいろなことを無防備にアップしてみようという試み。

今日は食です。

人間の根源的欲求、三大欲求の中でも、私にとってもっとも根深いであろう欲望。

それは、食欲。

意気地はないけれど、喰い意地はそうとうなものです。

一緒に食事に行って、好物が出てくるといきなり眼光が輝いて、
会話しているのに、ずっとその食べ物から目を離さない人っていますよね?

「もしかして、心ココにあらずなのか?」
と、疑ってしまうほど、美味しモノに心を奪われている人。

あれは、私です。





  
 先日はオシャレ女性誌の撮影現場で、美しくも美味しい、お弁当をいただきました。

女性ファッション誌では、最新の美味しいケータリングやお弁当を頂ける機会があって……
インタビューと同じくらい楽しみにしていることを告白します。


見目麗しいチオベンだって、大流行するずっと前に、女性誌の撮影現場でいただきました。
私の感度がよいわけではなくて、編集者の感度とネットワークのたまもの。

喰い意地マスターとしては、その恩恵にあずかれて、ただ、ひたすらに幸せです。

先日いただいたのは、チオベンならぬ、Deco弁。

ママたちが毎朝心血を注いでデコっているお弁当のことではありません。

出張料理DECOさんのお弁当です。



  当日のメニューは、こんな感じです。

身体に優しいのに、味わい深くて、ボリュームもある。
さりげなくも、仕事がていねい。
素材の良さ、新鮮さは言わずもがな。

創り手の心意気がつたわってくるようでした。

ここ10年、個人でやっているお弁当屋さん、ケータリングやさんが流行っていますが、
その人となりがお料理にあらわれていて、感動することもしばしば。

It's a  beatiful お弁当 World!

食べていて食欲はもちろんのこと、
美しいもの観たい欲求とか、優しさに包まれたい欲求とか、
欲しがりな女のいろいろな欲が満たされます。

どれもこれも美味しかったけれど、

新蕎麦の実と自家製湯葉と季節野菜の土佐酢ジュレ。


ああ、忘れがたし……。

また、美味しいお弁当に出会えますように。

2015年9月14日月曜日

Veryママへの愛を綴ったら!





 7月から、cakes(ケイクス)にて新しい連載エッセイを開始しました。


「雑誌が切り取る私たち ――恋も仕事も思いのまま?」



 私が、これまでライターとしてもっとも長く深く携わってきた女性誌について、
時代に敏感な新旧の女性誌の企画やキャッチコピーを振り返りながら、
女の人生の選択についてポップに語ってみようと試みております。


 さまざまな生き方や価値観の女性がいるように、
女性誌もいろいろな個性(人格)があります。

 でも、時代も雑誌のジャンルも超えて、根底にあるもの……
           悲喜こもごもや欲望や切なる願いはつながっているなと感じるのです。

書いていて(けっこう大変だけど)、すごく愉しいです。


 こちらは、本日まで無料で読める最新記事。
(記事は公開して1週間は無料というシステムです)

「VERYママカーストの女王は、イケダン浮気の悪夢を見るか」





イケダン浮気の……って、すごいタイトルですよね!

ママじゃなくても、思わず読みこんでしまう面白い雑誌ですけれど、
もし、私がVERYママだったら……と妄想しながら書いたエッセイです。


ちなみに、Yahoo!トピックスにもとりあげていただいたらしく、
ものっすごいアクセス数だったそう。


「長いよ!」 「妄想だ!」みたいなコメントをちらりと拝見しましたが、


これって、ヤフトピによくあがっているようなニュースではなく、
読み物(エッセイ)なので……

「そうよ、一部は妄想よ。それが何か?
WEBニュースのマナーや文字数に合わせてないよ!」

と、心の中で答えつつ、久々のWEBの洗礼に胸を少しだけ痛めつつ、
早々にコメント欄を閉じました(^^;)

でも、それ以上に嬉しい感想もいっぱいもらいました。

これから、WEB読者だって、WEB記事だって、WEBの書き手だって、
もっともっと多様になっていくだろうから、試行錯誤して、新しいやり方を探したいです。


それにしても、ありがたい!

私は自分の書いたものを、たくさんの人に読んでもらえるのが好きです。
映画エッセイでも、コラムでも、ライナーノーツでも、インタビューでもそう。

もちろん、完璧ではなくとも自分の納得のいくもの、
自分(と担当編集者)は面白い!と思えるものであることが前提だけど。

賛否両論でもいいから、いろんなところで生きている人、市井の人たちに読んでもらいたい。


だから、ずっと女性誌でもカルチャー誌でもスノッブなものだけではなく
(それはそれで好きだけど)、
多くの人が手に取りやすい雑誌を敬愛して携わってきたところもあるんだろうし。
今の時代は、WEBこそがその場のひとつなんだろうなと思います。

VERYママについては、まだまだ愛がとまらないので
またケイクスやブログなどで書きたいなと思います。









2015年9月13日日曜日

乙女座の新月の再開。



また、長いことブログを放置してしまいました。
再開すると言いながら、放置してしまいました。

でも、ほんとうに、久しぶりに書きたい気分になっています。


誰にとっても何がしかの転機となったであろう、2011年3月以降、
わたしは仕事以外の文章を書く気が急速に失せました。
理由はひとつではないし、明らかではない部分もあるけれど。


なぜ、また、書きたくなったのか?

いろいろなことに対する反抗心や疲れは、時に癒されつつあるからなのかもしれない。

一方、何でもない毎日を過ごしていても、
仕事でいろいろなものを書く機会に恵まれていても、
そこから、こぼれ落ちてしまうものがある。
書ききれない何かが溜まっている。

おそらく、文筆を生業にしていない人でも、
こぼれおちるものや溜まっているものをとどめたくて、
ブログやSNSに書いている人もいますよね。


たいしたことことは書かないけれど、
これからは、仕事も日常もぜんぶひっくるめて、
私的に愉しかったり、大事だったりすることを書いてみようかなぁ。


“女は毎月生まれ変わる” と言われていますが、
毎月、月のものを終えたり、新月になると、
何だか新しいことを始めたくなったり、
新しくなれる気がする。

毎月、性懲りもなく思える。

今日はね、乙女の新月なんですよ。

しかも、エネルギーの強力な日食!





だから、ブログ再開します。



2015年5月5日火曜日

 「CLASSY」6月号 ~私の恋愛の教科書~



現在、発売中の「CLASSY」6月号の読みものページ、達人に効く「あなたの恋愛の教科書は何ですか?」に登場しています。

恋愛本のベストセラー作家が、恋愛のヒントにしている本を紹介するという企画。

芳麗は、最愛の小説家のひとり、田辺聖子先生の「私的生活」をとりあげています。

同ページには、美容研究家の神崎恵さんやイラストエッセイストの犬山紙子さんなども登場していて、それぞれに“影響を受けた恋の教科書”がわかる興味深い企画です。


ぜひ、お目通しください。